自由が丘2
自由が2丁目
自由が丘駅の正面口。こちらも「ニッポン無責任野郎」で現在と比較。右手には今は5階建てのビルになっている「一誠堂」が見える。洋菓子店の不二家は見えないが地図表記では「不二家フードスター」だったのか。不二家書店は現役。
踏切沿いのお店、当時は「喫茶 二葉」。1973年の地図ではラーメン屋になっていた。さらに90年代は「中華 二葉」。現在は2011年オープンの健康食品の店になっている。
現:10~11番地。当時はまだ民家もあり、現存する「ポパイカメラ」「蜂の家」など老舗の店もある。「石井漠ダンススタジオ」は昭和3年開設。ダンサー・舞踊家である石井漠は「自由が丘」の地名の名付け親でもあり、自由が丘駅前ロータリーにある自由が丘のシンボル「女神像」は当初、石井漠の胸像になる予定であった。しかし、生きている人間が胸像になることを良しとしない石井漠本人の強い固辞によって、現在の女神像になる。門下生には松島トモ子や黒柳徹子らがいる。跡地には「長崎屋」が入り、2002年まで続いた。南風座やロマンス座などの映画館も多数あり、現在の文化的発信地になっている三軒茶屋や下北沢と同様。
ドラマから
「おひかえあそばせ」第7話(1971年7月21日放送)で10~11番地が出てくる。電柱の広告「サン・テーラー」は現在と同じだ。
昭和3年に手塚岸衛(教育者)が中学校(旧制)、小学校、幼稚園からなる、後に「自由ヶ丘」の由来となる自由ヶ丘学園を創設。後に経営難に陥り、昭和12年に、小林宗作氏(日本のリトミック研究者・幼児教育研究家)が小学校と幼稚園を引き受ける形でトモエ学園を創設された。同学園に通っていた黒柳徹子著のトモエ学園を中心にしたノンフィクション「窓ぎわのトットちゃん」はあまりにも有名。東京大空襲により校舎が焼失。後に、幼稚園のみ再建された地図上の状態。昭和38年、小林の死去に伴い幼稚園を閉園され、昭和53年に小林の長男によるトモエ幼稚園の廃園届が認可され、トモエ学園の歴史に幕が下りる。跡地には昭和48年の住宅地図を見るとすでにピーコックが出来ていた。現在ピ-コックの前にはトモエ学園があったことを示す石碑が建っている。